社長ブログ
株式会社アイネット
たぶん、ここを読まれているかたも現在直面している、もしくはいずれは直面するかもしれないことなので、私の父の運転免許証の自主返納の経緯を書いておきます。
私の父は現在80歳。一昨年ぐらいから運転免許をそのうち返納しないといけないと言うようになりました。きっかけは白内障で視力が薄くなってきたことでしょうか。しかし、白内障は今では簡単な日帰りの手術が可能です。白内障の手術を受けてからは視力について安心したのか、免許証のことを口にしなくなりました。
あと老化と言えるのは、物忘れが若干増えたことでしょうか。同じ話を繰り返すことが増えてきました。ただし、会話もしっかりとし、認知症と言えるほどではありません。運転をいつ辞めてもらうか気になっていましたが、日常生活が普通に送れているので強くも言えない日々でした。
さて、今年の5月のことです。半年毎に検査を受けていたのですが、ある臓器の腫瘍マーカーが急激に跳ね上がり癌の検査を受けることになり、5月に入院。ところが検査した場所が炎症を起こし、入院は一ヶ月ほどになりました。炎症のせいで発熱し、一時は歩くのも覚束なくなり、そのときも免許返納をたまに口にしていました。
そして、6月に無事退院。それからは通院しての抗がん剤治療が始まりました。ところが、熱があっても清潔好きの父は通常通り風呂に入ろうとしたり、また庭で花を育てるのが趣味なので花に水をやろうとしたり。結局、高熱で身体が効かない自覚がないまま庭に出て倒れ、救急車のお世話になり再び再入院となりました。
今度の入院は短くて済みましたが、二度の入院と抗がん剤治療で、元のようには日常生活を送るのが難しくなり、今は少しずつ元の生活に戻すべく日々をゆったりと過ごしてもらっています。
さて。ここで問題になったのが運転の問題です。何度か倒れているうえに、糖尿病の症状もある。更に私の母は月に10日ほどは自宅を離れて県外で仕事をしています。母は、自分がいない間に父がまた倒れたり運転で事故を起こしたりしたらと心配になり、一方の父は早く運転したくてしようがない。
当面、私が車の鍵を預かりましたが、父は「いつ鍵を返してくれるのか」と日々せっつくようになりました。時には、運転をさせたくない母が「運転するというなら離婚します」と言い、父は売り言葉に買い言葉で「ならば離婚してでも運転する」と言う。
こんな日々がいつまで続くのかと不安になっていました。私が引導を渡さないといけないと思っていても、私一人では精神的に抱えきれず、みんなで集まるお盆に説得しようと他の身内に相談したり根回ししたり。
7月も下旬に差し掛かったつい先日、抗がん剤治療を終えた父を車に乗せて帰っているときも、父が「鍵はいつ返してくれるのか」と迫ってきます。その日の夜も母と少し言い合いになったようです。
翌朝、心配で電話をしたところ、父は覚悟を決めたように穏やかな調子で「もう免許を返納することにした」と言いました。代わりの案として、最初は電動自転車などと言っていましたが、それも似たようなことになるので、結局、タクシーを日常的に使うように提案。ようやくそれで落ち着きました。
娘としては、父から車を取り上げるのは本当につらい作業で、時に気持ちがぐらついて「やっぱり気持ちがしっかりしている間は乗ったらいいよ」と言ってあげたいと何度も思いましたし、父も、「免許は返納する」と言う一方で「庭の肥料を買いにホームセンターに行きたいからやはりもう少し乗りたい」と言ったりする。ネットで物を買う習慣がないので、どうしても車で店舗まで行きたいという気持ちもわかる。
父にとって車とはたぶん「自分が自由にでかけられる道具」でもあると同時に「マイカーを持ちたいと思って頑張って働いたし、故郷の島根にも何度も車で往復した」あるいは「会社が苦しい時も、車を走らせ仕事を取ってきた」などさまざまな思いが詰まった存在でもあったのだなあと思います。
今を逃したら次はまたきっかけを作るのが大変になるだろうと思う一心で何とか父と会話を続けてきましたし、その間は親子ともども本当に苦しんできましたが、父は気持ちを固めてからは行動が早く、すぐに警察に返納に行きました。さすがに経営をしていただけあって、決断したら行動はすぐ起こすのです。
結局、これから何ヶ月も続くだろうと心配していた親子の攻防も一ヶ月ほどであっけなく終わりました。これからは免許証の代わりになる身分証を発行してもらうと同時に、タクシーやバスの割引を使えるようになります。そういったものを堂々と使い、身体が動く限りは社会復帰して欲しいと思っています。
みなさん、こんにちは!
今日は、最近読んだ借金玉さんの『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』という本を紹介しつつ、日常の中で少しでも生きやすさを確保していくかについて考えてみたいと思います。
この『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』という本の作者はご自身が発達障害であることを踏まえて、これまで抱えてきて仕事上で難儀な思いをしたさまざまな問題について自身がどう解決したかを紹介してくれている本です。
私自身は、ちょうどこの本を読んだのが春先で、採用について考えている最中ということもあり、「こういう本こそ、就活や勉強法などに悩んでいる若い人に読んで欲しいなあ」と感じました。「そうはいっても僕は私は発達障害じゃないし」と思う人もいるでしょうが、この本にあるようなちょっとした小さな工夫は、私自身が取り入れてもおかしくないようなレベルであり、そこにある「自分はこういう経験をしてきたからこういう失敗を重ねたのでそれを回避するためにこういう工夫を編み出した」というのは誰にとっても役に立つ思考法だと思います。
私自身はいまでこそ普通に生きているように見えているかもですが、小さい頃、本当に不器用で、もしかしたら今だったら何らかの診断名がついていたかもしれないと思ったりもします。今でも記憶にあるのは、保育園でひな人形を作るのですが、時間内にどうしても作れなくてしょうがなくて自宅で母に手伝ってもらってようやく形にした記憶とか、小学校低学年の理科の実験セットに入っていた砂を机の上にこぼしてしまってうまく扱えなくて泣きそうになったりとか、同級生はみんなできていることが自分にはうまくできないということばかりなんですね。そんな人間だったので、大人になってから電子工作とかできるようになるのってちょっと不思議なくらいなんです。
この本は大きく分けて
・仕事のやり方(道具の活用法)
・会社を「部族」という風にとらえる(人間関係)
・朝起きられない、夜眠れない(生活習慣)
・薬、うつ(依存、生存)
について書かれていますが、たとえば、仕事のやり方で私もそういう思考過程を経て似たようなことをしているなあと思うことがありました。
具体的には、「毎日勉強をしたいけれど、帰宅したらなかなか勉強が始められない」「始めても数日経つとやらなくなる」「そもそもやり方が分からず挫折」などという経験がありました。その原因をいくつか考えてみたところ、たとえば勉強のテキストを机の中にしまった途端、テキストの存在を忘れてしまうことが分かりました。なので最近は、毎日するものは必ず机の上にスペースを決めて並べておき、決して引き出しなどに仕舞わないようにしています。こうすることで、毎朝起きて隙間時間に10分でもすぐ机に座ってテキストを開くことができるようになりました。
借金玉さんは自分の「あらゆるものを失くしてしまい易い特性」に対して、あらゆるものを一つの鞄にぶっこむ、あるいは多重化して失くし易いものをあちこちに持っておくなどの具体的な手法について書いてくれています。
私の「継続的に勉強しようと思っていても目の前からテキストが消えてしまうと、そのことについて忘れてしまう」というのと大変良く似ています。
あまり著書の内容を引用してもいけませんので私の例をもう少し挙げますが、私は統計学を学ぶためにちょっと複雑な思考手順を踏もうとすると頭の中がごちゃごちゃになってしまうので、A3の画用紙を用意してそこに付箋を並べ替えながら理解をしていきます。一回理解した手順を見直せるように、A3のバインダーを用意して、画用紙ごと挟んでおきます。
私はずっと、自分の頭がさほど良くないと思っていましたが、要は自分は忘れっぽい、頭が良くない、理解してもすぐ忘れる、という前提で何重にも手を打たないといけないんだという自覚が大事なのですね。
・しつこいほどの細分化
・しつこいほどの多重化
・複雑な概念の分かるレベルまでの落とし込み
などでしょうか。
それまでは「こんなこともできないのでは自分はダメなんじゃないか」「自分はこの分野には向いていないのではないか」という自己否定の概念が頭をぐるぐる回り出して勉強が手につかなくなるというのをこれまで何度も経験してきました。
この本を読んで、私自身が「このレベルで悩んでいるのは自分だけではないんだ」と励まされることもあり、自分の生活にまだまだ改善の余地があることも教えられます。
最近は発達障害という言葉も一般化し、それに関連する書籍も沢山売られるようになりましたが、発達障害ということと関係なく、自分のためのハック(生活術)を編み出す手法のサンプル例として読んでみるといいかもしれません。
皆さん、こんにちは!
7月14日(土)に岡山県立大学で開催されたオープンハードカンファレンス2018Okayamaに出展してきましたので、今日はその報告をさせていただきます。
オープンハードカンファレンスとは、簡単に言えば、工作でもアプリでも手芸でもいいので、「ものづくり」でくくれるものを持ってきて展示しようというイベントで、このたび岡山では初めて開催されました。
私はチーム名「シロクロモコナーズ」で出展しました。「シロクロモコナーズ?どこかで聞いたな」、というかた。まあまあ。これは私の十八番のチーム名なので。あと、「モコナっていつの時代の話じゃー」というかた。まあまあ。知っているあなたもそれなりの年齢ですねってことで。
着いたら、ごそごそと自分の展示を並べます。
一緒のブースではDaikiさんがLEDでアクリル板を光らせるプリント基板を使ってのデモです。こっちのほうがピカピカして華がありますねえ。
私の出展作品は、野菜の鉢植えをRaspberryPiに付けたカメラで定点観測し、その様子をブラウザから見られるというものです(ここでも以前にチラッとご紹介しましたが)。どのあたりがものづくりかというと「100均のラティスを100均のスノコにドリルでネジ留め(近所の工務店でやってもらった」以外は
・RaspberryPiZeroWにFTPサーバ、Webサーバ、Python3、PHPなどをセットアップして定期的にcronでカメラ撮影をするようにするしくみ
・センサーなどの半田付け
・ブラウザに表示するところでちょこっとしたHTML&CSSデザイン
などなどですが、部品のいくつかは秋葉原で昨年購入したので、足かけで言うと半年くらいはかかって作成しましたし、途中はうまく動かなくてしょっちゅう家で足をバタバタして転がり回ってましたので、家族には迷惑をかけたかもしれませんね。
あとはこれもここで紹介したことがありますが、実験用電源です。購入したキットを半田付けしたあとは、スイッチやターミナルやケースを、パーツを買い集めケースをアクリル板で作って、これも足かけ3ヶ月くらいでしょうか。
もちろん、私の展示以外にも素晴らしい展示がたくさんあり、また、面白いセッションやLTもたくさん聴くことができましたし、他の出展者のかたからちょっとしたものづくりに関するアドバイスがいただけたのもとっても良かったです。
何より一番うれしかったのは、出展者同士の交流です。私のつたない作品も「この形まで完成させるのはすごいことなんだよ」というのを言葉にして言ってくださったかたがおられ、それまでの一人の長い時間が報われた気持ちになりました。ものづくりはどうしても複数のスキルの組み合わせになるので、そのどこかがうまくいかなくてもプロダクトがとん挫してしまい易い。それを乗り越え、ある程度の形まで仕上げることができること自体がすごいんです。それをお互いに称え合えるというのがとても良かったです。
私も本当に失敗が多くて、特に電子部品を組み合わせて半田付けしても、どうしても動かない、ということがしょっちゅうあります。
そんな時、うちの夫がいつも同じ思いで話をしてくれるのです。
「僕が小学生の時はね、一年に一度だけ夏休みにプラモデルを買ってもらえるのだけど、一年生の夏は必要な部品を捨ててしまって、動かなくて、近所のお兄さんに訊きに行ったら『それは捨てたらダメな部品だよ』って言われて、その次の年もうまく動かなくて、三年生になってようやく動くものが作れたんだよ。ものづくりっていうのはそんなものなんだよ」
という話です。
私は、今でもしょっちゅう動かないものを作ってジタバタしていますが、小学三年生の頃の夫を思い浮かべて、私のものづくりのスキルはまだ一年生ぐらいのものもあるのだから「三年ぐらいかけて動いたらいいかなあ」と思うようにしています。
みなさま、こんにちは。
まずもって、このたびは西日本豪雨により亡くなられた方々に謹んでお悔やみを申し上げますと共に、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
先週、西日本を中心に多くの地域で大雨による災害が発生しました。アイネットのある、この倉敷の地もこれまでにない豪雨に見舞われました。中でも、倉敷市の西に位置する真備町というところでは甚大な被害が出ました。そのため、多くのお付き合いのある会社さまからご心配をいただきました。ありがとうございました。幸いにも、弊社の所在地では大きな被害はなく、会社・従業員ともみな無事です。
ただ、私個人としては親族の中に真備町在住の者がおり、家屋の二階まで浸水となり、救助のお陰で一命をとりとめることとなりました。今は家族のところに身を寄せております。私もすぐにお見舞いを持ってお訪ねしたところ、元気な顔を見せてはくれましたがやはりかなり気落ちされていたようです。
そのときに思ったのは、私たちはつい軽々しく希望のあるような言葉を探して声掛けをしてしまうけれども、それは実はしてはいけないのではないかということです。
「家はダメになってしまったけれど、みんな無事だったから良かったじゃあないですか」とか「大変だったけど怪我もなくて良かったね」などという言葉が口をついて出ます。ですが、被災された側は励まそうと口をついて出たそれらの言葉に却って傷ついてしまうように思うのです。「あなたは『良かったね』と簡単に言うけれどちっとも良くないよ」と心の中では叫んでいるのを感じます。
私自身、「ご親族が無事で良かったですね」と何度か言われているうちに、ううーん、そういう簡単な言葉で片付けるのは難しいなあとモヤモヤし始めたのです。
被災したばかりの絶望している人に、簡単な希望を口にするのはよくないと。希望は、絶望している人が自ら時間をかけて見出すまで周囲は待つべきだと。
そういうことを、接していく中で強く感じました。
私自身、これまで各地の災害の被災者のかたといろいろなお話をしてきた中で、迂闊ななぐさめや希望を口にしていたかもしれないことを反省しています。
これから西日本全体が復旧するのには時間がかかると思いますが、焦らずできることをしながら進んでいきたいです。
みなさん、こんにちは!
今日までかけて合間の時間を見ては所属団体に向けてウラジオストク経済視察レポートを書いていました。お堅いレポートを書くのは嫌ですねえ。
ということで、今回は旅のこぼれ話。ロシアの可愛いもののことや、偶然の出会いのことなど書きます。
まず可愛いものですが、ウラジオストクに到着した日の夜に食事をした「ノスタルギア」っていうレストランが可愛かったです。お花がたくさん飾ってあってアンティークな家具で統一されていました。日本にあったら女子会などで使いたい感じのお店でした。
次に可愛かったのはお土産物屋の看板猫でした。ウラジオストクのシンボルは虎なので、あちこちに虎のモチーフを見かけるのですが、お土産物屋さんの中にある虎のプレートの前にトラ猫が寝そべってまして、みんなにいじられてもぜんぜん起きないんです。そばに「餌代ちょうだい」っていう募金箱が置いてありました。
それから、ホテルのランチのデザートが可愛かったです。ウラジオストクのJETRO(日本貿易振興機構)のクジヤトフさんに経済の様子をお聴きした時のランチではこんな可愛いデザートが出ました。
最後にアルセニエフ博物館を見学した時にロシアのナナイ族の民族衣装が展示してあったのですが、可愛かったです。ちなみにアルセニエフ博物館というのは、アルセニエフという学者が沿海地方の民族や風土や歴史を調べた資料がおさめられた1890年に作られた博物館です。
◇◇
さて、偶然の出会いのほうですが、実はウラジオストク空港についた時、ちょうどガイドのステファンが日本人の人と親しそうに会話をしていたのです。それが平成音楽大学のホルン講師であり、極東連邦芸大名誉教授の今瀬氏というかたなのですが、翌日の夜、日本のギタリスト建孝三氏とフルート演奏者の松尾麻里氏のコンサートがあるということを教えてもらいましたので、さっそく予定を変更し、劇場まで足を伸ばして素敵なコンサートを堪能しました。
その劇場ではなんと、翌々日には加藤登紀子さんのコンサートも行われるということでポスターが貼ってありました。
これで私のウラジオストクの旅行話は終わりです。日本に近くて遠い国ロシアは、国の政策もあり、子供を産むことや子育てにもいろんな補助が出るようで、たくさんの子供連れの家族を見かけました。
個人的にはとても楽しかったので、いつか機会があればまた行きたいなあと思いつつ、帰路につきました。