社長ブログ
株式会社アイネット
みなさん、こんにちは!
以前よりときどきBAR社長室の様子をご報告していますが、相変わらず月に一、二度はいろいろな来訪者が思い思いのものを持って訪ねてきます。
単純に楽しむためのこともあれば、相談したいことがあってやってくる方など様々です。先日も、自分が楽しみたいお酒、肴を持って、あるいは一度来てみたいというかたもおられて30代技術者が中心で開店していました。
私はまあ、なんとなく相談ごとがあればそのときの流れで「私はこう思うよ~」などという助言もさせてもらいつつ、皆さんが持参してきてくださったものを堪能させてもらいました。
最後に『Team of The Dead ~オバケのチームで追い払え!~』というゲームをしました。
率直に言うと、酔っていてゲームのルールがちゃんと理解できていない状態でやるには厳しいゲームでしたが、チーム作りのための人材獲得が最後に勝ち負けを決めるゲームという感じでした(あまりよく覚えてないんですが…)。
ところで、こういう交流のための場を提供する側にいるということについては、けっこう気を付けないといけないこともあるので、今日はそのあたりを書いておこうと思います。
まず、たくさんの人数が入れないので、メンバーの構成を考慮して一番楽しめる人数に制限するということでしょうか。
また、みなさん飲食物を持参して来られることが多いので、準備と後片付けには時間ととられます。翌日はせっせと掃除をしていることも多いです。
もちろん、お酒を呑まれないかたが来られた場合は、お酒を呑むメンバーばかりが楽しまないようにというのも気を遣います。
あと、季節によって気温が変動するので、置かれている飲食物の状態も気を遣います。
私自身がこういう場でやりたいことは、自分より若い人が仕事をしていく中で職場の人とだけでは解決できないようなときに、ここで気分転換をしてくださることで何か新しいものを得て帰っていってもらうことです。
それから、会社にとっても人と人、人と会社、会社と会社を繋ぐツールとして機能してくれたらいいなあとも思っています。その昔(今もあるかもですが)、会社の中には煙草ルームというのがあって、そこでだけ話されることというのがあったかと思いますが、煙草を吸わない私からすると入れない場所です。また営業の仕事としてゴルフをされるかたも多いでしょう。でも、ゴルフをしない私にはこれまた入れない場所です。
なので、あらためて自分がプロデュースできる場所を使いながら「こういうやり方でも仕事って可能なんだなあ」というある種の可能性の提示ができればいいなと思っています。なので、お酒を呑まない人でもこれるカフェ社長室であってもいいし、別の人にとってはボードゲーム場であってもいいのかもしれません。
最後に、私が年長者としてその場にいることも多いという意味で気を付けていることとして、自分が葛藤を抱えているその場にいる人と対等な職業人であることを忘れないこと、というのはけっこう意識しています。でも、気を付けていても、立場上、誰よりも強い発言をしてしまうことがあるかもなので、そのときはおおいに突っ込んでください!
ではまた、何か新しい場の楽しみ方を思いついたらお知らせしたいと思います。
みなさん、こんにちは。
今週のブログは何を書こうかなあと考えていて、日産リーフに乗り始めてだいたい一ヶ月ぐらい経ったので、いろいろと電気自動車のことや安全装備のことなどについて分かってきたことも溜まってきたし、夫が昨年発売のスバルのフォレスターに乗っているのでスバルのアイサイトとの比較について、実感したことを書くのが良いかなと思ったのですが、車の記事って興味ある人以外は面白くなくないですか?どうですか?(笑)
などと思っていたのですが、コチラの記事がすごく面白かったので、今日はそちらについて書きますね。
「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイト、以前はよく読んでいたのですが、この一年ぐらい忙しくてネットで色んな記事を読むことも減っていて、久しぶりに覗いたら
という記事の連載が、ちょっと前にあったみたいで一気読みしました。
「生きる」がテーマということや、解剖学や脳の専門家であるお二人の対談ということで、生物学的な話が多いかなと思っていたのですが、意外にも熱力学などの物理の話が多くて、物理の読み物などで時間の概念について知るのがすごく好きな私としてはものすごく興奮して読みました。
いろんな観点から生きるというテーマについて語られているのですが、特に以下の内容から二つほど思うところがあったのでここにメモしておきます。
「人は『世界の秩序を増やすことができる』とどこかで思い込んでいるけれど、実は秩序は増やせない。掃除機でゴミを集めて秩序を生み出しても、そのゴミはどこかで燃やされて塵となってまた拡散していく、というように、秩序を生み出してもまた無秩序に戻っていく」
「時間という概念は人間作りだしたもの。時間が前に進むか後ろに進むかも、実は分からない。時間が後ろに向いていても成り立つように物理学の式は書かれているものが多い。時間という概念がない人間以外の動物は時間を気にしない。昨日とか明日という区別は人間だけが付けている」
こういうことをいろんなエピソードを交えながら研究者の言葉で説明してもらうとものすごく面白いのですが、私が思ったこと。
1、そもそも、時間というものを考えつき、そこに時計などで目盛りを刻み、経営で言えば一年を「期」という単位で区切っていくということは、本来の人間の脳としては不自然なことである。だから、一時的にそこに秩序(ルール)を持ち込んだほうが脳の中で経済活動を把握し易くなる。よって、秩序を持って情報を整理していくほど、経営や現場の運用はやり易くなる。が、本来の脳の在り様としては不自然なことであり、生物の本来の性質的なものとの摩擦は必ずあるので、そこを忘れないようにしながら秩序と無秩序のバランスを取っていくのが大事。あと、人間の脳はそもそもスケジュールに合わせていくというのは不自然で苦手なことであるならばどんどん補助ツールを遣うべき。
2、今、認知症に関する本を読んでいるのだが、認知症になると時間の概念がなくなっていく。一日三度の食事、箸やスプーンを使っての食事、といういつの間にか「人として当たり前」と思っていることができなくなるケースも多い。だが、そもそも、一日三度、というのも勝手に現代の人が決めたルールである。食事ひとつ取っても、だんだん人らしくできなくなっていく場合、周囲の人が「あんなにちゃんとしていた人が人間性を失っていく」とショックを受け、認知症を発症した人に怒ったりするが、本来は「一日三度」というような秩序など持たぬ世界で生きている生き物が大半なので、認知症になって行動が変わったように見えるのは素の生き物に戻っていっているだけで、それは「間違い」ではないと思えば認知症の人に接するうえでの気持ちもまた変わるのではないか。もっと言えば、「苦手な人」というのも多くはその人の秩序と自分の秩序が異なっているために感じ易いことだということを分かっておくこと。
などと、今回の記事を読みながら思いついたりしました。
この手の脳のしくみとか、ーっといろんなことを考えているのが好きなので、とりとめないことをたまにこのブログにも書くかもしれません。学生の頃は物理が苦手だったのですが、こういう切り口で教えてもらえてたらもっと好きになっていたのにと思います。
今日はこんな感じです。
みなさん、こんにちは!
今日は「今年は勇気を出して立ち止まろう」という気持ちで過ごしていることについて書きます。昨年までは、趣味で電子工作をしたり、同人誌をサークルで一緒に作って売ったり、あるいは試験を受けに行ったりしていたのですが、今年は敢えてそれらを惰性で続けずにひとつひとつ手に取って棚卸しをしています。きっかけは、時々ここにも書いているように、父の病気療養のサポートの時間が長くなって休日に時間が取れなくなってきたことにあります。休日に何かを予定していても、結局、実家に行くことになり何もできないストレスだけが溜まっていく状態でした。
それで、敢えて今年は「趣味と思っていても結果的にストレス要因になってしまうことを取り除いていこう」と考え、一旦、多くのことの手を止めて、時間の遣い方、お金の遣い方について再構築しているところです。
以下、やっていることです。
1、優先度の低いことはアウトソーシングをする
たとえば私の場合、本業の経営のほかに、社屋ビルの管理をしていました。ビルに関わる修繕の発注や、修繕作業の立ち合い、集金、トラブル対応(ガス、水道などの異常)など、一つ一つはたびたび発生することでなくても、そのたびにストレスが溜まって行きます。これは管理会社を入れることにしました。自分でも今までなぜ早くそうしなかったのかと反省しきりです。私の一番大事な仕事はアイネットという会社の経営の舵取りであり、それ以外のことで疲弊している場合ではなかったと今更ながら実感しています。
2、映画や読書などの娯楽を義務化しない
私は映画サークルに入っているのですが、このサークルでは月に3本の課題を決めて、次の月に集って感想を語り合うんです。これ、年間80本とか100本観ている人(実際にいるんですよ)にしたら息をするようにできることですが、私がそんな風に観ようとすると思うとかなり時間を使います。あまり無理をしてきっちり3本観ようとするとスケジュールのやりくりがきつくなってしまいます。同様に、読書も、本来は娯楽の筈なのに話題の本を買い過ぎて積読本が溜まったりすると負担を感じてしまいます。自分が「映画好き」「読書好き」であるという属性を守りたいと思い過ぎず、読みたいものがあれば読む。早く読みたいとわくわくするようなものだけ読む、というのに気を付けています。
3、初学者向けの本や図解本を敬遠しない
「はじめての」などと銘打ったイラストが多様されているテキストなどで勉強するのを敬遠していたのですが、内容の複雑度が上がると一回読んだだけでは理解できないまま放置してしまうので、気楽に読める程度のものを何度も、あるいは何種類もパラパラと呼んだ方が圧倒的に良い気がします。たとえば、弊社では統計検定受験を推奨して会社で取り組んでいますが、いきなり受験向けのテキストに取り組むよりは、Newtonなどの特集を何度も読み返すほうが、なぜ統計や確率を学んだ方が良いのか、どういうシーンで使えば良いのかなどがしっかり理解できます。今は、急いで検定本など読まずに、原点に戻って学び直しています。
4、家にいる時間をできるだけ長くとる
これはかなり難しくて、かなり重要です。皆さん、週末のイベント参加で疲弊していませんか?技術者が集うイベントは刺激的だし、コミュニティの絆は深まるし、なんというか「遊びと仕事が一体化してる」って感じがして、家族持ちの人も理由にし易いですよね。でも、生活のQOLを一定以上保つには、家にいる時間をしっかりと確保しないと難しいと痛感しています。家が片付かない、家の掃除ができていない、家事が苦手、ということの最大の理由は「家にいる時間が少ないから」だと思っています。基本的に、家を一定レベルでちゃんと保つには「週末にまとめて掃除や洗濯をする」ではなく、できるだけ一日単位のルーチンである程度のことが回せていないと無理です。
また、イベントでアウトプットするのは自分の成長において効果的ですが、私は最低でも一つのイベントでのどんなにささやかな内容のアウトプットでも準備に三ヶ月は必要だなと感じています。なのであまり頻繁にアウトプットをすると一回一回のクオリティが確実に下がります。
あと、ついついいろんなものに手を出してしまう自分に忠告をしてくれる人を身近に持つのも大事ですね!
というわけで、コミュニティのみなさん。また戻ってきたら仲間に入れてください。
当面は、6月開催のオープンセミナー岡山2019での登壇に力を注ぎます。
こんにちは。
ご存知のかたも多いと思いますが、漫画家のさくらももこ先生がお亡くなりになりました。私も同世代なので、かなりショックを受けました。
沢山のかたがさくら先生の死を悼みいろいろな文章を書いておられますので、私自身はあれこれと語るのはどうかなと思いますが、私も一言書かせてもらえるならば、私が大好きだったのは『コジコジ』という作品でした。コジコジというのは主人公の名前で、メルヘンの国というところに住み、学校に通い、いろんなものが擬人化したようなクラスメイトと一緒に楽しくものんきな日々を送るという漫画です。それぞれ「お正月」を擬人化した「お正月くん」とか太陽を擬人化した「ゲラン」とか変わったキャラクターが沢山出てくるのです。
コジコジの素晴らしいところはたくさんあるのですが、一番好きなシーンはコジコジがあんまりおまぬけなので学校の先生が「きみはいったい何になりたいのか?」と問うと、「コジコジはコジコジだよ。コジコジは生まれたときからずっと、将来もコジコジはコジコジだよ」と答えるところかなあ。コジコジは宇宙とか世界とかあらゆる生命そのものを象徴したようなキャラクターだったんでしょうね。
最後に私が長年愛用してきた自室に掛けてある『コジコジ』のティッシュカバーの写真を掲載します。
どうでもいいですが、ティッシュペーパーって箱本体の重みで一枚取り出せるので、写真のように壁に掛けると上手く取り出せなくてわりとイライラしますね。
みなさま、こんにちは。
まずもって、このたびは西日本豪雨により亡くなられた方々に謹んでお悔やみを申し上げますと共に、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
先週、西日本を中心に多くの地域で大雨による災害が発生しました。アイネットのある、この倉敷の地もこれまでにない豪雨に見舞われました。中でも、倉敷市の西に位置する真備町というところでは甚大な被害が出ました。そのため、多くのお付き合いのある会社さまからご心配をいただきました。ありがとうございました。幸いにも、弊社の所在地では大きな被害はなく、会社・従業員ともみな無事です。
ただ、私個人としては親族の中に真備町在住の者がおり、家屋の二階まで浸水となり、救助のお陰で一命をとりとめることとなりました。今は家族のところに身を寄せております。私もすぐにお見舞いを持ってお訪ねしたところ、元気な顔を見せてはくれましたがやはりかなり気落ちされていたようです。
そのときに思ったのは、私たちはつい軽々しく希望のあるような言葉を探して声掛けをしてしまうけれども、それは実はしてはいけないのではないかということです。
「家はダメになってしまったけれど、みんな無事だったから良かったじゃあないですか」とか「大変だったけど怪我もなくて良かったね」などという言葉が口をついて出ます。ですが、被災された側は励まそうと口をついて出たそれらの言葉に却って傷ついてしまうように思うのです。「あなたは『良かったね』と簡単に言うけれどちっとも良くないよ」と心の中では叫んでいるのを感じます。
私自身、「ご親族が無事で良かったですね」と何度か言われているうちに、ううーん、そういう簡単な言葉で片付けるのは難しいなあとモヤモヤし始めたのです。
被災したばかりの絶望している人に、簡単な希望を口にするのはよくないと。希望は、絶望している人が自ら時間をかけて見出すまで周囲は待つべきだと。
そういうことを、接していく中で強く感じました。
私自身、これまで各地の災害の被災者のかたといろいろなお話をしてきた中で、迂闊ななぐさめや希望を口にしていたかもしれないことを反省しています。
これから西日本全体が復旧するのには時間がかかると思いますが、焦らずできることをしながら進んでいきたいです。